人の目が気になって動けなかった私が変わった3つのきっかけ
今日は少し私自身のことを書きたいと思います。
私は、他の人の目が気になって「どう評価されるだろう」ってことをいつも考えてしまい、何かにチャレンジすることがあまり得意ではなかったんです。でも、性教育の活動を始めようと思ったころから、それがずいぶん変わってきたなと感じています。
「やってみたいと思ったことは、とりあえずやってみる」
これを合言葉に、三男の育休中から性教育を伝える活動を始めてきました。今日は、なぜ私がそうやってチャレンジできるようになってきたのか、そのきっかけをまとめたいと思います。
夫の姿から学んだこと
きっかけのひとつは、パートナーの姿を見ていたことです。彼は3人の子どもの育休中に、本当にいろんなことにチャレンジしていました。長男の育休中はプログラミングを勉強したり、次男の育休中にはバイクの免許を取りに行ったり、三男の育休中はゲームを作ったり、YouTubeの配信を始めたり。
でも、始めたことを継続しているかというと、そうではなくて、気づいたらやめていたものも結構あるんですよね。そこで夫に話を聞いてみたら、「とりあえずやってみて、うーんもういいかなって思ったり、合わなかったらやめてる」と言うんです!その言葉に、ちょっとびっくりしている私がいました。
というのも、私は小さいころから親に言われてきたことが、「始めたことは続けるべき」「途中でやめるのはよくないこと」だったからです。特に、習い事に関しては、やりたい!と思って始めたことも、途中で嫌になって「今日は休む…」とか「行きたくないかも…」と言って、辞めてきたことも多く…「飽き性だね」「耐え性がないね」と言われてきました。それがずっと、自分の欠点だ、よくないとこだと思っていました。
でも夫の言葉を聞いて、「そっか、楽しいと思えたり面白いと思えることは自然と続くし、違うと思ったらやめていいんだ」とハッとしました。一度始めたことはある程度の結果を出すまで辞めちゃいけないとか、途中でやめたら「またできなかった」自分はダメだなぁと思うこととか、そういう思い込みに縛られていたんだな、と気づきました。
性教育の学びで気づいた私の中の思い込み
そんな夫の姿に背中を押されて、「私もやってみたい」と思えたこと。そして、三男の育休が最後になるかもしれない、今しかないかもしれない、という気持ち。そのタイミングが重なって、性教育を伝える活動を始めました。
それで性教育を伝える活動を始めてから、学びを深める中で “アンコンシャスバイアス(無意識の思い込み)” について知りました。アンコンシャスバイアスは、何かを見たり、聞いたり、感じたりしたときに、無意識に「こうだ」と思い込むこと。本来は誰にでもあるもので、すべてが悪いわけではありません。でも、それがネガティブに働くと、誰かを傷つけたり、自分の可能性を狭めたりすることにつながります。
これを少し意識してみると、自分がどれだけ「こうすべき」「こうあるべき」に縛られていたかに、少しずつ気づくようになりました。さっきの「続けることがいいこと」というのも、そのひとつです。
子育てをしていると、自分の無意識の思い込みに気が付くことが多いです。わが子が外で泣いていると、「周りからどう思われるだろう」「いいお母さんでいなきゃ」という気持ちが出てきて、子どもの気持ちや自分の気持ちよりも、周りの目を優先して動いていたことがあったなと思います。
最近は、自分の気持ちとは違う行動をしているときや、子どもの言動に「え!?そんなことするの?」と思ったときに、少し立ち止まって考えるようにしています。
先日、保育園の行事で、三男がえりもとのよれよれの服を「これ着たい」と選びました。本人がそれでいいと言うから着せましたが、実は少し嫌だったんです(笑)「なんで嫌なんだろう?」と考えてみると、結局は「周りにどう思われるか」だったんですよね。
子どもの安全のためでも、子どもの気持ちのためでもなく、ただ“私がどう思われるか”が気になっているだけ。そして気づいたのは、「よれよれの服を着せている人は…」と、私自身がどこかで思っているということ。だから「誰かにそう思われるかも」と感じていたんだな、と。
本当に小さなことですが、こういう積み重ねが、自分の「やってみたい」という気持ちにブレーキをかけすぎずに動けることにつながっていると感じています。(完全に思い込みから自由になっているわけでも、すべての思い込みに気が付けているわけでもないですが!)
HUCのコミュニティで変わったこと
もうひとつ、大きなきっかけが、HUC(母親アップデートコミュニティ)に入ったことです。HUCには「誰も否定しない」というルールがあります。これは「相手を否定しない」だけではなく、「自分自身も否定しない」という意味もあります。
この環境の中で、何かを発言しても否定されない経験を重ねるうちに、自分の気持ちを「そうなんだ」と受け止められるようになってきました。そして、「誰も否定しない」という言葉が自分の中に浸透してきてから、相手の言葉の受け止め方も少しずつ変わってきました。
誰かの言動に傷ついたり、悲しくなったりすることがあったとします。もちろん、明らかに悪意がある場合は距離をとればいい。でも多くの場合、誰かが何かを言うとき、相手を傷つけようとしているわけではないことのほうが多いなと感じています。
それは自分自身を振り返っても同じで、誰かを傷つけようと思って話すことは、あまりない。(あまりなんでゼロでは絶対ないし、特に親、兄弟、パートナー、子どもには、甘えてしまって言ってしまうことも多々あります…)でも、意図せず誰かを傷つけてたり、悲しい気持ちにしてしまうことはある。それはきっと、みんな同じなんだと思います。
これは、子どもたちと読んでいる絵本からも学びました。わが子たちが大好きなガストンのソーシャルスキル絵本シリーズのひとつ『しっぱいしたっていいんだよ』という絵本です。
主人公ガストンのいとこのジョセフィーヌが、わざとじゃないけどガストンが悲しくなることばかりしてしまいます。ガストンはジョセフィーヌの失敗を許せなくて…そんななか、ガストンもわざとじゃないけどジョセフィーヌのぬいぐるみにつまづいてしまい、ぬいぐるみの腕が取れちゃう。ああ、ジョセフィーヌももしかしたら…とガストンが気づき、お父さんに諭されて、仲直りするいうお話。
そのお父さんの言葉の中に「わざと意地悪なことをする人もいる、そういう人からは離れていい。でもそんなつもりじゃなかったのに誰かに悲しい思いをさせてしまうこともある。」と、これは一部なんですが、そういう内容が書いてあったんですね。それを読んだときに、「そうやな」と思ったんです。
だから、すべてをネガティブに受け取らなくてもいいのかもしれない、と。私は引きずるタイプで、モヤモヤすると5日から1週間くらいは考えてしまうこともあります。でも、受け止め方は昔よりだいぶ変わってきました。(誰もかれも私を否定しているわけじゃないのかも…くらいにはなってきたかな?と思います)受け止め方は、自分で選べる部分もあるのかもしれない。そう思えるようになってきました。
だから今、やってみようと思える
だからこそ今は、誰かの目(それは自分自身の思い込みでもあるのですが)に振り回されすぎずに、失敗してもいい、成果が出なくてもいい、完璧じゃなくてもいい、自分が「やりたい」「面白そう」と思ったことを、まずはやってみようと、一歩を踏み出せるようになってきました。
先日「とりあえずやってみようとしているところ」を褒めていただいて、とても嬉しかったので、なんで最近そう思えるようになったんだろう、と振り返ってみました。身近な人の姿、性教育との出会い、そしてHUCでの出会い。そういった環境が、私を少しずつ変えてくれたんだなと思います。
だからこそ、私は性教育を学んで本当によかったと思っていますし、この話をこうして言葉にできたことも、とても嬉しく感じています。








