ひとりごと

どんな選択でも幸せに生きていける社会へ

どんな選択でも幸せに生きていける社会へ

母の日が近づいています。今年も、私が所属している母親アップデートコミュニティ(通称、HUC)では、母の日に向けたキャンペーン「#母最高かよ2026」noteバトンリレー企画が始まっています!私はnoteではなく、blogで参加したいと思います!メンバーのnoteは下記のリンクをご覧ください⇩

#母最高かよ2026|母親アップデートコミュニティ(HUC)|note

もしかしたら、

「母親って最高かも」

そう思える瞬間は、まだ少ない人もいるかもしれません。

でも、誰かの投稿を見て、
「こんな感じでもいいんだ」と思えたり、
「私だけじゃなかったんだ」と感じられたら。

それだけで、心は少しやわらぐはずです。

今年も一緒に、100人100通りの「母最高」を広げていきましょう。

今年も「#母最高かよ2026」やります!|母親アップデートコミュニティ(HUC)

自分史上最高の私は、小さなアップデートの積み重ね

私が「母最高かよ」と思うときは、決まって今の私が好きだなぁと思えているとき。私は、母ではありますが、母だけではありません。時に、妻であり、娘であり、姉で妹であり、孫でもある。出勤すれば看護師で、性教育を伝えるときは講師になる。誰かの友だちでもある。いろんな属性の私がいて、どれも私です。

そんないろんな私をひっくるめた自分のことを、私はいいなと思っていますが、そう思えるのは「母になったこと」で見えた世界があったからだと思っています。母になったからこそ気づいたこと。母になったからこそ感じたしんどさ。そのひとつひとつをきっかけに、私は少しずつ自分を “アップデート” してきた気がします。

ただ、このアップデートは、よくイメージされるような成長とは少し違う気がしています。何か目に見える成果を出すことでも、できなかったことができるようになることでもない。

「こうあるべき」から少し自由になれることだったり、「できていない」「ダメだ」と思っていた自分に「そんなことない」と声をかけられることだったり。誰かから見てわかりやすい変化ではないかもしれないけれど、自分は「これが心地よい」と思える感覚、「この自分、なんかいいな」と思える感覚を、少しずつ積み重ねてきました。

もちろん、自分っていいなと思えない日も、何もできていないと思う日もあります。そんな自分もOK、そんなときもあるよと思える日もあれば、思えない日もあります。そんなできたり、できなかったりする自分のことをニュートラルに感じられているとき、私って最高かもと思えます。

母になったからこその気づきが、今の自分に

「ずるい」と思っていた私

母親になってから、私は自分と誰かを比べて「ずるい」と思うことが増えました。例えば、パートナーに。彼は片頭痛持ちでよく頭が痛くなるんですが、たまに土日に発症します…。そうなると、未就学児3人ワンオペ育児になるわけです。そのとき、決まって思うのが「私もしんどくなれたらな」です。

私はクリニックでパート勤務をしながら、性教育講師として活動しています。時間の融通がきく分、家事育児のメインは私。まだまだ甘えたいわが子たちそれぞれの思いを一人で受け止めるのは正直限界!!!と、メンタルが削られていく日々です。

別に、彼も遊んでいるわけではないんですよね。平日はフルタイムで働いて、頭痛いときはしんどくて寝ている。でも、私がいるから残業もできる、一人でからだを休められる。子どもたちを気にかけることのない時間があることを、羨ましく思うことがあります。

でも、私にもしんどいときがある。体調が悪いときだけじゃなくて、「今日はもう何もしたくない」「なんか疲れた」そういう日もあります。そして、そんなときにはパートナーに助けてもらっている。この問題、パートナーが悪いわけでも、私が悪いわけでもないよなぁと感じられることが増えました。

同じような「ずるい」は、他にもありました。例えば、子どもを預ける制度。私は働いているので子どもたちを保育園に預けていますが、働いていなくても預けられる制度に対して「いいな」「ずるいな」と思っていた時期がありました。

あとは、生理休暇。私は生理痛が重くないので、不快感はあっても働けます。でも、生理痛が重い人が「しんどいので休みます」と言うのを聞くと、「私は使えないのになぁ」と思っていたこともありました。

見えてきた「ずるい」の正体

私が「ずるい」と感じたこと、そのそれぞれで “その人が悪い”わけじゃない。ずるいと思う私が悪いわけでもない。もっと別のところに、敵がいるんじゃないか。(敵という表現が適切かはわかりませんが…)

誰かが休むと回らなくなる仕組み。休むことに罪悪感がつきまとう空気。支援が「特別なもの」になってしまっている社会。そういう社会規範、社会構造の中にいるから、私はつい、目の前の誰かと自分を比べてしまって、「ずるい」って思うんじゃないだろうか。

誰かがしんどいときはしっかり休めて、その間も無理なく回る。休む側も、支える側も、どちらか一方に負担が偏りすぎない。そんな仕組みがあれば…。そう思ったとき、「私 vs 誰か」だった構図から、「どうやったら一緒に生きやすくできるか」を一緒に考える、手を取り合う味方なんだ!と思えるようになりました。

それに気づけたのは、母になって見えるようになった世界があったから。そして、この現状に違和感を持ち、声をあげている人たちに出会えたから。そこで触れた考えや言葉、いろんな人の生き方や選択が、少しずつ私の中に積み重なっていって、気づけば今の私の見方や感じ方をつくっている。母になったことも、出会いも、学びも、その全部がつながって、今の私ができているんだと思います。

どんな選択でも幸せに生きていける社会へ

じゃあ、私は何ができるんだろう。大きなことはできないけれど、自分の中の意識を変えること、身近な人との関係のあり方を考えること、半径5メートルの世界を少しずつ変えていくこと。少しずつ自分にできることを続けていきたいと思っています。

未就学児3人育児、共働き、核家族。夫の実家は遠くて、私の実家も近いとはいえ車で30分、しかも両親ともにフルタイム勤務。結局、自分たちで回していくしかない毎日は、正直、めちゃくちゃ大変です。しんどいことのほうが多くない!?という日々です。

それでも、悩んだり、考えたりしながら、「もっとこうなったらいいのに」とこれからの社会のこと考えるようになった今の自分を心地いいなと思っています。母になったからこそ見えたことがある。母になったからこそ感じたしんどさもある。でもそれと同時に、「社会をよりよくしたい」と思える自分にも出会えた。

そして、最近読んだ本をきっかけに、もうひとつ強く思うようになったことがあります。それは、「どんな選択をしても幸せに生きていける社会であってほしい」ということ。私は、自分が母になって感じたしんどさを自己責任にしたくない。子どもを産み育てることに希望が持てる社会になるといいなと思っています。

そして、母であってもなくても、どんな人でもそれぞれの人生として尊重される社会であってほしい。「産む・産まない」だけじゃない、働き方も、休み方も、生き方そのものも、どんな選択をしても、「それもいいよね」って言い合える。そういう社会だったら、きっと「ずるい」も少しずつ減っていくんじゃないかなと思うんです。

そんな中で、私が行っている性教育の活動もより良い社会を目指すうえで、意味があるものだと思っています。包括的性教育は、単にからだのことを知るだけじではなく、人それぞれ違うことを理解することや、お互いを尊重し合うこと、よりよい人間関係を築く力を育てていくものでもあります。ジェンダー平等や多様性の理解も、そこには含まれています。

「違っていい」「それぞれでいい」と思える人が増えていくことは、きっと、どんな選択をしても幸せに生きていける社会に、少しずつ近づいていくことなんじゃないかなと思います。だから、私が今してることもほんの小さな一歩かもしれないけれど、その社会に向かうための一部になっていたらいいなと、そんなふうに思っています。

考えるきっかけをくれた母親アップデートコミュニティに、心からの感謝を。100人いれば100通りの母のかたちがある。いろんな母親の姿を見せてもらったからこそ、「私は私でいい」と思えるようになりました。大きなことができているわけではないけれど、それでも、自分にできることは何だろうと考えながら生きている今の自分が、私は好きです。

 

もえ
もえ
私たちの生きる社会がより良いものになりますように!私にできることを精一杯!